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私のフォルケホイスコーレとの出逢い



はじめまして。
ビネバル出版/北欧留学情報センター代表の山中典夫といいます。

だいぶ古い話で恐縮ですが、1973年に、私は、初めてデンマークのフォルケホイスコーレに遊学しました。
計画的に行ったのではありません。1970年代当時の閉塞状況から逃れたくて,友人に誘われるまま、なんだがよくわからないままに、ロシアのジェルジェンスキー号いう客船にのり、横浜港から船で日本を出国しました。

旧ソビエト連邦、フィンランド、スウェーデンを抜けて、デンマークのオーゼンセという駅に真夜中に降り立ちました。
3月初めでものすごく冷えて、新聞紙をかけて駅のベンチで仮眠を取ったことを覚えています。
デンマークを訪ねたのは、同行の友人にデンマーク人女性のペンフレンドがいたからです。私は高校時代の友人Nに誘われるままについて行っただけなのです(主体性ゼロ!)。
友人のペンフレンドは、当時、オーゼンセ大学の医学生だった”リセ”。彼女は極東から突如来訪してきた男2人を驚きつつも、暖かく迎え入れてくれました。

フォルケホイスコーレを教えてくれたのは、このペンフレンドのリセでした。
「近くの体操学校に日本人がいる、会ってみない?」。
スヴェンボアという小さな港町で1週間ほど無為に過ごし(でもなかったんですが)、ヒマをもてあまし始めていた私たちはその学校を訪ねました。その学校の名は、

Ollerup Gymnastikhøjkolen (オレロップ体操アカデミー)

体操学校でした。あとでわかるのですが、ここで行われている「デンマーク体操」は日本のラジオ体操のエクササイズのお手本だったのです。
先代の校長ニルス・ブックは戦前日本にもデンマーク体操を見せに来日したこともあり、日本の体操関係者にはつとに知られた学校でした。この体操学校が私の「フォルケホイスコーレ」との出会いでした。
初めはこの学校のシステムそのものが、私は理解できませんでした。普通の学校とは違うことはよくわかるのですが、その違いを言葉にできないのです。まず校則というのがありません。先生と生徒が対等に話しています。先生達はくちうるさいことはいっさい言わない。こんな学校は日本で見たことがありませんでした。とにかく「管理されている」という感覚からは無縁なのです。

学生運動に覆われる日本社会の中で、なんとなく身の置き所を見つけられず、人生を粗末にする毎日でしたが、デンマーク社会、そしてフォルケホイスコーレに暮らして「人生、すてたもんじゃないかも」と思い始めていました。
人間はこんなすばらしい社会システムを作れるんだ、その時は言葉になっていませんでしたが、今考えるとそんな風なことを私は感じていたのだと思います。
フラフラとデンマークへ漂着したのですが、実に幸運な巡りあわせであったと思っています。

フラフラ遊学では世話になったデンマークの良さを日本社会に上手く、伝えられない、これでは申し訳ないと思い、1980年にデンマーク語ブラッシュアップすべく再び3カ月間、語学専門のフォルケホイスコーレに留学しました。そこに留学して悟ったことは、自分には語学の才能がない、ということでした。しかし一方で、自分にとってたいへん重要なインスピレーションを得たのです。そして帰国すると、出版社に勤務し、編集のまねごとを覚えると「北欧の本」を出す出版社をやりたいと考えるようになり、三度目の(このときは妻と子連れ)フォルケホイスコーレに留学をしました(1987年)。そして帰国すると出版社をスタートさせました。

少し、言うのが恥ずかしいのですが、フォルケホイスコーレ、デンマークで学んだことは私の精神の血肉となっていることは否定できません。本来のセコイ性分はなおっていませんが、ものの見方が定まった感じがあり、私の人生観・生活観に大きな影響を与えています。国のあり方と社会のあり方をわけて考えるようになったのも、フォルケホイスコーレに学んだからでした。

フォルケホイスコーレは成績表も卒業証書もない所です。あなたが友人、教師らと対話したこと、そして対話から学んだ事だけがフォルケホイスコーレに学んだ証しになります。あなたの気持ち一つ姿勢の保ち方で、フォルケホイスコーレ留学の「実り」は大きくもなり小さいものにもなるのです。皆さんが、フォルケホイスコーレ留学を通じて北欧と良い出逢いをして良い経験を積み、北欧で学んだことを日本社会に首尾良く、還元すること望んでいます。

このサイトが、あなたの実りある北欧留学のヒントになれば幸いです。

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ビネバル出版/北欧留学情報センター
代表 山中典夫


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